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映画を思考する No1

『いちげんさん』(2000年 監督・森本功)

 小説の原作がどう映画化されるのか。そんな興味があった映画『いちげんさん』を見た。
 
 京都の大学で日本文学を専攻し、古都をこよなく愛する外国人のボク(エドワード・アタートン)と、盲目の女性、京子(鈴木保奈美)。この二人の出会いと別れを軸に物語は進む。
 ボクが始めることになったのは、京子に文学作品を読み聞かせる「対話朗読」という風変わりなアルバイトだった。異邦人であるボクが発する、どこか不安定なイントネーションがつきまとう日本語。その言葉を京子が耳で感じ取っていくシーンは、背景に置かれた京の庭のしっとりした風情にも溶け込み、対比の構図が面白かった。
 原作は芥川賞候補になったデビット・ゾペティの小説。ストーリーが原作にほぼ忠実につくられていたことが、この映画の美点と弱点の両面を浮かび上がらせている。
 活字で読んだとき、妙に想像力をくすぐられた朗読場面の官能性は、映像でも見事に再現されていた。ただ、小説の最初の原題『一見さん お断り』が示す通り、ボクが自らの意思とかかわりなく、周囲の日本人から異端視されてしまう≪断絶≫のモチーフは、活字での描かれ方が弱かったのと同様、「異質な存在」のボクがなぜいらだちを感じながら、それをニヒルに肯定してしまうのかという根源的な理由がつかみにくかったからだ。
 原作と映画の関係はどうあるべきなのか。少なくとも映像は、単に活字の「写し絵」であるべきではないのだろう。その意味で、活字の世界をもう一歩、映像が獲得できる視点で踏み出してみてもよかったのではないかと思う。
 映画の最後の場面は、夜桜が舞い散る円山公園を、白いつえをついた京子が去っていくあまりにも美しいシーン。小説では、京子を見守るボクが、≪地球の反対側は今昼間だと、漠然と考えた≫という一節で終わる。この言葉のリアリティーを映像に還元するのは、やはり難しいことなのだろうか。(今)
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Author:polaris
ともに産経新聞の記者だった今西富幸、城島充が独立して立ち上げた事務所です。ポラリスとは「北極星」を意味するラテン語。ひたすら書くことに愚直であり、大宇宙のなかに一点、輝く存在でありたいと願って名づけました。

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